日々の気づき

『やった実績』と『本当に意味のあること』は、同じではないと思う

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事業を実施する。参加者を集める。写真を撮る。そして参加人数を実績として残す。

私は以前、そうした活動を見ると、「それで、本当に何が変わったのだろう」と思っていました。

今でも、その違和感がなくなったわけではありません。

ただ、この1〜2年でいろいろな立場の人と関わる中で、少し考え方が変わってきました。

すべての活動に同じ意味を求めなくてもいい。
「これは形として必要なこと」「これは本当に意味のあること」と、分けて考えてもいいのではないか。

最近は、そんなふうに思っています。

「やった」という実績は残るけれど

これは、認知症サポーター養成講座だけについて感じていることではありません。

地域で行われるさまざまな事業や研修を見ていて、以前から感じていたことです。

少人数でも、意図をもって伝えることの意味については、「花を植えるだけで終わらせない」でも考えました。

事業を実施する。

参加者を集める。

その様子を写真に撮る。

何人参加したのかを数える。

そして、

「今年度は○回実施し、○人が参加しました」

と実績として残す。

もちろん、それに意味がないとは思いません。

事業を行ったのであれば、その記録を残すことも必要ですし、参加人数を把握することも必要でしょう。

ただ、私はどうしてもその先を考えてしまいます。

「それで、実際に何が変わったのだろう」

研修を受けた人の考え方が変わったのか。

その後の行動が変わったのか。

認知症のある本人や家族に、何かが届いたのか。

写真と参加人数からは、そこまでは分かりません。

「何をしたか」は分かる。でも、「何が変わったか」は分からない。

そこに、私はずっと違和感を持っていました。

参加人数という数字についても考えてしまう

事業をするためには、当然、参加してくれる人が必要です。

でも、地域によっては、なかなか人が集まらないこともあります。

そうした中で、職員の家族や関係者に声をかけて参加してもらうこともあると聞きます。

もちろん、その方たちが参加すること自体に意味がないわけではありません。

そこで何かを知ったり、考えたりする機会になるのであれば、それにも意味はあると思います。

ただ、その人数がそのまま、

「地域にこれだけ活動が広がった」

ということになるのだろうか。

私は、そこを考えてしまいます。

参加者が10人だったのか、50人だったのか、100人だったのか。

数字はとても分かりやすいものです。

けれど、人数が多いことと、その活動が地域に与えた影響の大きさは、必ずしも同じではないと思います。

私は「うわべだけなら意味がない」と思っていた

以前の私は、こうした活動にかなり批判的だったと思います。

写真を撮るためにやる。

人数を報告するためにやる。

事業を実施したという実績を残すためにやる。

そんなふうに見える活動に対して、

「それなら、何のためにやるのだろう」

「本当に意味のあることをした方がいいのではないか」

と思っていました。

認知症に関する活動であれば、認知症のある本人や家族に何かが届くこと。

地域の人の認知症への見方が変わること。

困っている人に気づく人が増えること。

実際の行動につながること。

一方で、活動の場に来られる人だけでなく、本当に支援が必要な人ほど相談につながりにくいという現実もあります。

そういうところまであって、初めて意味があるのではないか。

そんな考えが強かったのだと思います。

相手には相手の立場がある

ただ、この1〜2年で、さまざまな立場の人と関わる機会が増えました。

行政の立場。

医療や介護の専門職としての立場。

地域で活動するボランティアとしての立場。

組織の中で役職を持つ人としての立場。

現場で実際に動く人としての立場。

同じ認知症という課題に向き合っていても、置かれている立場や役割によって、求められることは違います。

その中で、少しずつ考えるようになりました。

「この人は、どんな立場でこの仕事をしているのだろう」

たとえば、現場では「もっと本人や家族に直接届くことをしたい」と思っていても、役職があれば、組織として結果を示すことを求められるかもしれません。

行政であれば、事業を計画し、実施し、参加人数や回数を数字として残す必要があります。

ボランティアであれば、制度や数字よりも、目の前の人とのつながりを大切にしていることもあります。

同じ活動を見ても、立場によって「大切にしなければならないもの」が違う。

自分の立場から見れば「そこにどれだけ意味があるのだろう」と感じることでも、その人の立場から見れば、やらなければならない大切な仕事なのかもしれません。

すべてを「意味のある活動」にしなくてもいい

だからといって、今まで感じていた違和感がなくなったわけではありません。

今でも、写真を撮って人数を数えただけで「成果があった」と言われれば、

「本当にそうだろうか」

と思います。

ただ、以前と少し変わったのは、すべてを同じ物差しで考えなくてもいいのではないかと思うようになったことです。

これは、形として実績を残すために必要な活動。

これは、本人や家族、地域に実際の変化を生み出すための活動。

そうやって、分けて考えてもいい。

「これは、うわべとして必要なこと」と割り切る。

そして別のところでは、

「ここでは、本当に意味のあることをやる」と考える。

無理に一つにしなくてもいいのだと思うようになりました。

「割り切る」ことで見え方が変わった

これは、うわべだけの活動を「それで十分」と思うようになった、ということではありません。

本当に意味のある活動は、やはり必要です。

認知症のある本人や家族に何が届いたのか。

参加した人の考え方や行動が変わったのか。

地域にどんな変化が生まれたのか。

そういうことを大切にする活動は、これからも必要だと思っています。

ただ、それとは別に、組織として形を整えたり、数字を残したりする活動があってもいい。

「これはこれ。あれはあれ」と割り切る。

そう考えるようになってから、以前ほど「意味がない」と切り捨てなくなりました。

相手には相手の立場がある。

その立場でやらなければならないことがある。

そして、私には私の立場でできることがあります。

すべてを本当に意味のあるものにしようとするのではなく、形として必要なものは形としてやる。

その一方で、本当に意味のあることをやる場面では、そこを曖昧にしない。

この1〜2年でいろいろな立場の人と関わる中で、私はそんなふうに考えるようになりました。

以前の私なら「うわべだけなら意味がない」で終わっていたかもしれません。

今は少し違います。

「これは何のためにやることなのか」を自分の中で分けて考える。

それも、地域で活動を続けていくためには必要なことなのかもしれません。

プロフィール
しるべ
しるべ
認知症看護認定看護師
認知症看護認定看護師として、認知症疾患医療センターで認知症に関わっています。 これまで急性期病院での勤務経験があり、ケアマネジャー資格、家族の介護経験もあります。 専門職としてだけでなく、家族として悩んだ経験も含め、日々の関わりの中で感じたことや気づいたことを、自分の言葉で綴っています。 正解を押しつけるのではなく、「こんなこともあるよね」と一緒に考えられる場所にしたいと思っています。
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