心に残った講演④――「語れない人」と決めつけていないか
「本人の声を大切にする」。
そう考えたとき、もう一つ気になることがあります。
そもそも私たちは、言葉で話すことができる人の声だけを「本人の声」と考えていないだろうか。
そして、「この人はもう語れない」と、私たちの側が決めつけてはいないだろうか。
認知症が進むと言葉にすることが難しくなる
認知症の進行などによって、自分の思いや気持ちを十分に言葉で表現することが難しくなる方がいます。
こちらから質問しても答えが返ってこない。
話の内容がうまくつながらない。
何を聞いても同じ言葉が返ってくる。
そうすると私たちは、
「もう本人から聞くのは難しい」
と考えてしまうことがあります。
もちろん、本当に言葉で表現することが難しくなっている場合もあると思います。
でも、ここで一度考えてみたいことがあります。
本当に「語れない」のでしょうか。
「語れない」のではなく「語りにくい」のかもしれない
こちらの質問が難しすぎるのかもしれません。
答えを待つ時間が短すぎるのかもしれません。
知らない人に囲まれた場所だから、言葉が出ないのかもしれません。
緊張しているのかもしれない。
周囲が騒がしくて、話に集中できないのかもしれない。
あるいは、写真や馴染みのある物を見ながらなら、話せることがあるかもしれません。
質問の仕方を変える。
急かさずに待つ。
その人が安心できる場所で話す。
馴染みのある人と一緒に話す。
そうすることで、その人なりの言葉が出てくることもあるのではないでしょうか。
「語れない人」なのではなく、私たちが「語りにくい状況」をつくっている可能性もある。
これは、忘れてはいけない視点だと思います。
言葉にならない声もある
それでも、認知症の進行などによって、言葉だけでは自分の思いを十分に表すことが難しい方もいます。
だからといって、その人に「声がない」わけではありません。
表情。
しぐさ。
視線。
拒否。
落ち着かなさ。
いつもと違う様子。
ある場所では穏やかなのに、別の場所では落ち着かなくなる。
ある人が来ると笑顔になる。
何かを差し出すと手を伸ばす。
反対に、顔を背ける。
表情、しぐさ、視線、拒否、落ち着かなさなど、その一つひとつも、本人が何かを伝えている可能性があります。
もちろん、支援者が勝手に「この人はこう思っている」と決めつけてはいけないと思います。
だからこそ、普段の様子を知る人と一緒に考えたり、環境を変えて反応を見たりしながら、その人の思いを確かめていくことが必要なのだと思います。
「本人の声を聞いた」と簡単に言わない
前回の記事では、私自身が「本人の声を大切にしたい」と考えながら、実は自分が聞きたい前向きな声を探していたのではないか、ということを書きました。
でも、「本人の声を聞く」ということには、もう一つ難しさがあります。
言葉でしっかり話せる人だけを「本人」として扱ってしまえば、認知症が進行した人の声は、どんどん見えなくなってしまいます。
一方で、
「この人は認知症が進んでいるから、もう聞いても分からない」
と最初から決めてしまえば、本当は語ることのできる言葉まで失わせてしまうかもしれません。
だから私は、
「この人は語れるのか、語れないのか」ではなく、「この人が思いを表すために、私たちに何ができるのか」
と考えたいと思います。
言葉を待つことかもしれない。
質問を変えることかもしれない。
環境を整えることかもしれない。
そして、言葉だけでは表現できないときには、表情や行動からその人の思いを考えることかもしれません。
声を聞くために、私たちの側を変える
ここまで考えて、前の記事で書いた「障害の所在」という話とも、どこかでつながっているように感じます。
本人に「もっと話してください」と求めるだけではなく、本人が話しやすくなるように、私たちの関わり方や環境のほうを変える。
それでも言葉にならないものがあれば、その人の表情や行動にも目を向ける。
「認知症だから分からない」
「もう話せない」
と決めつける前に、
「もしかすると、私たちがまだ聞けていないだけではないか」
と考えてみる。
本人の声を大切にするということは、本人に語ってもらうことだけではなく、私たちがその声を受け取れるようになることなのかもしれません。
