「『支えたい』だけでは支えられない現実」
本人の苦しさを理解したい。でも、受け入れる現場にも限界がある。
認知症のある人を「どこで支えるのか」。これは本人や家族、現場だけではなく、地域、そしてこれからの日本全体で考える課題なのかもしれません。
実際に関わった一人の患者さん
比較的若い年代で、脳血管性の認知症がある方と関わる機会がありました。
麻痺があり、こちらの話はある程度理解できているように見えても、自分の思いを言葉にして伝えることが難しい状態でした。いわゆる「運動性失語」と呼ばれる症状です。
言いたいことがある。
伝えたいことがある。
けれど、うまく伝わらない。
そのもどかしさが怒りや大きな声、時には手が出るような行動として表れることがありました。
その姿だけを見れば、現場として「対応が難しい」と感じるのは自然なことかもしれません。
しかも、その方は体格の大きい方でもありました。
言葉で伝えられない苦しさが、行動として見えることについては、「切れ痔が教えてくれた、認知症の人の痛み」でも、自分の経験から考えています。
支えたい。でも、現場にも限界がある
ここで考えさせられるのは、本人だけの問題ではありません。
受け入れる側の現場に、どこまで支える力があるのかという問題です。
地方の病院や施設では、患者さんや利用者さんだけでなく、職員自身の高齢化も進んでいます。
70代の職員が、今も現役で地域を支えていることもあります。その姿には本当に頭が下がります。
けれど同時に、体力にも人員にも限界があります。
特に夜勤帯になれば、職員数はさらに限られます。
「見てあげたい」「支えてあげたい」と思っていても、本当に安全を守りきれるのか。
他の患者さんや利用者さんに影響は出ないか。
職員がけがをしないと言い切れるのか。
そうした不安が、現場には現実としてあります。
本人の苦しさを理解したい気持ちと、現場の安全を守る責任。その両方の間で揺れることが、今の地域の現場が抱える葛藤なのだと思います。
受け入れられなければ、その人はどこへ行くのか
そして、もう一つ考えなければならないことがあります。
病院や施設で受け入れが難しいとき、その人はどこに行けばよいのでしょうか。
自宅で、家族だけが支えるのでしょうか。
本人を責めるだけでは解決しない。
現場に努力を求めるだけでも解決しない。
家族だけに抱えてもらうだけでも続かない。
「その人を、どこで支えるのか」
高齢化が進むなか、この問いは一つの地域だけの問題ではないのかもしれません。
地域全体で、そしてこれからの日本全体で考えていかなければならない課題なのだと、今回のケースを通して感じています。
本人と家族の生活を守るために、暮らす場所をどう考えるか。「認知症になったら、どこで暮らすのか②――自宅・施設・病院という選択肢」でも、その時々で選び直すことについて書いています。
