切れ痔が教えてくれた、認知症の人の痛み
今、自分自身が痔の痛みに悩んでいます。
仕事中、座っていることに耐えられたのは2時間でした。とうとう周囲に痔であることをカミングアウトし、配慮してもらって、その後は立って仕事をしました。
そこで考えました。
私は「痛い」と言えたから、立つことができた。では、痛みをうまく言葉にできない認知症の人だったら、どうなるのだろう。
「落ち着かない」「何度も立つ」「怒りっぽい」。そんな行動の裏に、私たちが気づいていない痛みが隠れているのかもしれません。
2時間でギブアップした
病院を受診して薬も使っていますが、痛み止めを飲んでも、なかなか痛みが取れません。
仕事柄、記録をするために座っている時間があります。
30分くらいすると、だんだんつらくなってきます。
腰を浮かせたい。
立ち上がりたい。
臀部を休ませたい。
それでも仕事なので我慢していましたが、2時間ほどでギブアップしました。
とうとう周囲に、
「実は痔が痛くて……」
とカミングアウトしました。
事情を話すと配慮してもらうことができ、その後は立って仕事をしました。
ずっと座っていなくていい。
それだけでも、ずいぶん違いました。
私は「痛い」と言うことができた
そこで、ふと思いました。
私は自分がどこを痛いのか分かります。
「座っていると痛い」
「もう座っていられない」
と周囲に伝えることもできます。
そして、伝えたことで周囲に分かってもらい、立って仕事をするという方法を選ぶことができました。
では、この「痛い」「座っていられない」が伝えられなかったら、どうなるのでしょう。
認知症が進むと、自分の痛みの場所や程度をうまく言葉で表現することが難しくなる場合があります。
私が今回経験した痛みを、もし言葉で伝えることができなかったとしたら。
そう考えると、病院や施設で見てきた光景が少し違って見えてきました。
「座っていてください」と言われ続けたら
病院や施設では、座って過ごす時間が意外と多くあります。
食事をするとき。
テレビを見るとき。
レクリエーションに参加するとき。
デイルームで過ごすとき。
椅子にはクッションが敷いてあることもあります。
でも、自分が実際に痛くなって分かりました。
痛いときには、クッションがあっても、座っていること自体がつらい。
そんなとき、私は腰を浮かせます。
何度も姿勢を変えます。
そわそわします。
そして、立ち上がります。
それなのに、
「座っていてくださいね」
「まだレクリエーション中ですよ」
「立つと危ないですよ」
と、そのたびに座るよう促されたらどうでしょう。
私は「痛いから立たせてください」と言えます。
でも、それが言えなかったら。
何度も腰を浮かせる。
立ち上がろうとする。
そわそわする。
声をかけられると怒る。
座ることを拒む。
周囲から見えるのは、そうした「行動」だけです。
そして、
「落ち着きがない」
「立ち上がりが多い」
「最近、怒りっぽくなった」
と捉えられ、場合によってはBPSDとして整理されてしまうこともあるかもしれません。
でも、立ち上がりたいのではなく、痛くて座っていられないのかもしれない。
痛いのに立つこともできず、その理由もうまく伝えられない。
今の自分なら、それがどれほどつらいことなのか、少し想像できます。
本人にとっては、地獄のような時間になることさえあるのではないでしょうか。
痛みの背景として、便秘も考える
今回、痔になったことで、便秘についても改めて考えました。
高齢になるほど、便秘は増えていきます。
さらに、活動量や食事・水分摂取量の低下、薬の影響、排便環境など、さまざまな要因が関係します。
病院や施設で生活している方では、自宅にいた頃より動く機会が少なくなったり、自分のタイミングでトイレに行きにくかったりすることもあります。
便秘や硬い便が続けば、排便そのものが苦痛になることもあります。
もちろん、「そわそわする」「怒りっぽい」「何度も立つ」という行動が、すべて痛みや便秘から起きているわけではありません。
だからこそ、最初から決めつけないことが大切なのだと思います。
行動の背景にある痛みや生活に目を向けることは、「認知症になったら、どこで暮らすのか①――ライシャワー事件から考える精神科病院と認知症ケア」の「BPSDへの対応は、まず薬以外から考える」でも触れています。
「困った行動」ではなく「困っている人」かもしれない
認知症のある人が、いつもと違う行動をしたとき。
私たちは、その行動そのものに目を向けがちです。
なぜ立とうとしているのだろう。
なぜ座っていられないのだろう。
なぜ今日は怒りっぽいのだろう。
なぜ何度も腰を浮かせるのだろう。
そこで一度、
「この人は何かを伝えようとしているのではないか」
と考えてみる。
痛いのかもしれない。
便秘なのかもしれない。
トイレに行きたいのかもしれない。
同じ姿勢でいることがつらいのかもしれない。
本人が言葉にできないことを、表情や仕草、行動、いつもとの違いから考えてみる。
「困った行動」と見る前に、「この人自身が何かに困っているのではないか」と考える。
今回、自分が痔になって、その大切さを身をもって感じました。
私は2時間でギブアップしました。
そして「痛い」と周囲に伝えたことで、立って仕事をすることができました。
もし、あの痛みを伝えることができなかったら。
そう考えると、認知症のある人の「立つ」「そわそわする」「怒る」という行動を、これまでとは少し違った目で見られるような気がします。
認知症看護における「察する」ということ
本人が言葉にできないことを、表情や仕草、行動、そして「いつもと違う」という小さな変化から考える。
すべてを分かることはできなくても、「なぜだろう」と考え続けることはできます。
認知症看護における「察する」ということ。
それは、言葉にならない「痛い」に気づこうとすることでもあるのだと思います。
